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後悔
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- 2009/05/15(Fri) -
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パソコン内のたまったファイルを整理していて、
5年前に書いて、出さなかった手紙のファイルを発見した。 そして、出さなかった事を強く後悔した。 あのとき出していれば、きっと喜んでくれたと思う。 これを書いた翌年の夏。 「飲みに行くよ!」と電話を頂き、 「もう少し涼しくなったら、例のジャズバーへ行きましょう。」と 電話を切った。 結局、飲みに行く事なく、その年の大みそかに亡くなってしまった。 その手紙 麻生さん 遅くなりましたが 「冷蔵庫8」 ありがとうございました。 そして、本当に「冷蔵庫」は一区切りつけるのでしょうか? 第21信の中で麻生さんは われわれの生きている日々は、刻々と変化し、つねに挑戦して行くことかもしれませんね。 <ものごとにはすべて終わりがある。始まったものはいつか必ず終わる>・・・・・・ のかも知れませんが、なにかが<終わる>ことは、またなにかが<始まる>ことでもあるのですね。 と書いています。 「冷蔵庫」の終わりで始まり。 また新たに何か始まる事に期待しています。 でも、いざ「冷蔵庫」が終わりかもしれないとなると、いろいろと思い出します。 麻生さんと知り合え、その風貌も然る事ながら、 「冷蔵庫1」を読んで興奮し、色川武大・殿山泰司・開高健・を買いあさったり、 古今亭志ん生のテープを手に入れ整骨院のBGMとして流し続けたりしたのが約13〜4年前。 麻生さんの著書、「こころやさしく一生懸命な人々」や「りんごの實」・「落語百選」など 木村さんの「竹中労 無頼の哀しみ」・尾形明子さんの「自らを欺かず」・岡村遼司先生の「生き方の流儀」・それから「紙の魚」もありました。 それから「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」のビデオを送って頂いた時は感激しました。 そして、そのイブライムさんが亡くなりました。 76歳、心臓発作だそうですね。 合掌 その後も新しい「冷蔵庫」が出る度に、 また麻生さんの著書を読む度に新たな興奮に包まれ、 最近では「桜レクイエム」に涙し、 岡部伊都子さんの本をインターネットの古本屋(失礼)で3冊購入しました。 そして今回の「冷蔵庫」では、 憲法9条を正確に知らなかった事。 小沢昭一さんの「戦争は狂いですな、正義の戦争より、不正義でも平和」が心に滲みた事。 「春の宵 嫌です駄目です いけません」 (私も句会を始めてあそぼうと思いました。) などが印象に残りました。 麻生さんには「冷蔵庫を」通じて、成熟した大人の精神をたくさん見せて頂き、 本当にありがとうございました。 常々私は、 普通の人達より精神的にずっと後れて成長していく人間だと思っているのですが(これは謙遜ではありません) 自分の牛歩の延長線上には「冷蔵庫」に登場する先輩方がいるなあと(歩む方向に間違いないと云う意味です)なぜか自負しているのです。 と云うより麻生さんにはそんな自信を育てて頂いた様にも感じています。 麻生さんは私の知る限り、人のこころを大事にできる絶滅危惧種的、人間の一人ですね。 こころを大事にできると云う事は、人間を育てる事のできる絶対条件だと思います。 私は、人生の中でこころを大事に扱ってもらったなあと思うのはたった3人で、麻生さんは4人めです。 もちろん気がついてないだけで、もっと多くの人達に見守り支えられていたのでしょうし、 こころの面だけでなく、物の面でも助けられてきたことは充分わかっています。 感謝もしています。 その反面、目に見える結果だけでしか人と接する事のできない人達があまりにも多すぎるのも事実だと思います。 いつからか「育てる」は私の人生のテーマになっていて、 結局人間はいやが応にも、死ぬまで自分自身を育て続けて行くしか無く、 それが生きて行く事だと結論づけています。 ですから私の仕事でもある、からだを良くすると言う事(整体)は、 からだを育てる事でもあるのだ、と気づきました。 そんな私も45歳になり、ようやく自分で物事を考え判断し、それを軸として他を参考にする。 と云うスタンスができあがりつつあります。 まあこういった事は世間一般では精神的自立と云うことなんでしょうが、 先に書いた通り大分後れております。 早熟な人は、小学生でこういうことを始めますね。私の子供の同級生に、そんな天才的な子がいました。 あっ麻生さんもそういうタイプでしたね。ご自分ではへそまがりと言ってますが。 たとえば、 自分が感動しすばらしいと思った事に対して、なんでもかんでも教わろうとする姿勢(一見、謙虚だがとても依存的)から、 その感動(主観)を一度自分の中で熟成させ、大脳という客観の中を通してハッキリと意識に上ってきたとき、 自分の中で物事を考え判断したと、言えるのだとようやくわかりました。 考える事は主観から始まるのだから、 からだの中にどんな感じが発生するのかがとても大事。 すぐ言葉や理屈にならなくても、よく感じるだけでそれが脳をよく刺激してくれるのだから脳の発達につながり、適応力も培っていくはずです。 だから最近は知覚すること。感受性のたいせつさを痛感しています。 そして自分一人では僅かな経験しかできませんが、そこで得た何かが、すこしずつ自分のなかに蓄積され、 それが他人の経験やことばに、ひびき共鳴する。 相似象としてとらえるのかもしれません。 当然、自分の中に何がどのように蓄積されていくかも重要だと云う事になります。 その為には、知覚する時の感じ方が過敏でも鈍感でもなく、正常ですなおでなければいけないと云うことになると思います。 こうして書いてみると、 ただ後れているだけではなく、私の目が内へ内へと向いて行く傾向があるのがよく解ります。 けれどたぶん、もうすこしわたしの中で熟成と蓄積がすすむと、きっと今度はそれを足掛かりに外へ外へと向かうのでしょう。 そうなるとようやく麻生さんたち大人の仲間入りができます。 いつになるやらわかりませんが。 さーここらへんで自分の書いた物を読み返すと、なんと稚拙でつまらない文かと、自己嫌悪に陥るのです。 本当にがっかりしてしまうんです。 とたんにめんどうくさくなり、いつも出すのをやめてしまいます。 今回もやっぱり やーめたっ と思いましたが、歳と共にずーずーしくなってきたのと、 精神的自立がすすみ、かっこつけをしようとしなくなってきたのとで、いいや出しちゃえっとひらきなおる事ができました。 まあ、それにしてもやっぱ はずかしいなあ・・・ 最近覚えたメール風にパソコンを使って書いてみました。 なんとなく気軽に書ける様な気がします。 なんか文章も尻切れとんぼの様ですいません。 麻生さん・木村さんの健康を祈っています。 |
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メモ 4
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- 2009/03/17(Tue) -
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ストレス
仕事の・・とか、 夫婦間や親子間、その他の人間関係・・とか、 騒音の・・とか、 ストレスというと、何か特別なネガティブな事だと考えがちだけど、 そんな特別なもんではない。 たとえば、重力も気圧も気温も、その他地球上のあらゆる環境もストレスなのだ。 何より、この肉体こそ、究極のストレスだと考えられる。 この肉体の中で、命を保っていくためには、 あらゆるストレスに適応していかねばならない。 そして、よりよく適応できた時に、肉体には快感と共に生命力が湧き上がる。 ストレスと快感は1セット。 切り離す事はできない。 ストレスという不快が肉体を締め付けるからこそ、そこから逃れるために、適応し快感を求める。 いやいや適応しても快感は得られるが、 より積極的に能動的に適応してこそ、 さらに深い感動が体を満たしてくれる。 生命力を溢れさせてくれる。 だから、 元気な体ほど、さらなるストレスを求め続ける。 より深い、感動を求めて。 |
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メモ帳 3
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- 2008/12/17(Wed) -
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3歳までにきちんとした生命感覚が育っていれば、
その後は、のびのびと育てる事ができる。 と、言うよりも、勝手にすくすくと育っていくと思う。 (3歳までの育て方とは? これが大事なのだが、今頃気づくんだよね。やんなっちゃうよ。) 残念ながら、親がそれをうまく育てられなかったり、 本人に、もともとその能力がなかったりして、 放っておくと、人や社会を平気で傷つけてしまう様な場合に、 3歳からでも発達する大脳に対して、常識や社会通念を強く植え付け、 非社会的な行動にしばりを作っていく。 そう考えると、常識も社会通念もとても大切だ。 しかし、それも、その子の成長をよく見極めて使い分ける事が大切だ。 さらに残念な事に、そのどちらもできなかった場合。 法律で否応無く、きびしく取り締まるしかない。 裁判では、 大変反省しているし、更生の余地があるから・・等、弁護するのを聞くが、 大抵は、更生の余地はない。 もう、遅い。 同じ人間でも、まともな人からそうでない人までの巾は、気が遠くなる程だ。 私達はそうゆう社会に生きている。 |
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メモ帳 2
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- 2008/11/11(Tue) -
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何を快と感じるかの個人差は、とても本質的な問題だ。
生命の真ん中から渇望された要求が満たされた時に得られる感動と、 そうでない偽物の欲求が満たされた時の快楽の違い。 もちろん否定はしないが、 判っていて楽しむのと、 判らず溺れるのとでは、 まったく違う! その判別がつく感受性は恐らく、 受精後から3歳までの間にしか育たない。 |
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メモ帳 1
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- 2008/11/07(Fri) -
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からだに良いことは、ひとりひとり違う。
いまにも死にそうなくらい衰弱した人は保護しなくてはならない。 自分の中にある元気を発揮できないでいる人は、 それを引き出すためには、ちょっとした毒がいるかもしれない。 元気すぎる人はいろんな制限を施し、エネルギーが分散しない様にして、 何か建設的な方向へ集中できたなら、 すばらしいことを成し遂げることができるかもしれない。 その人のからだにとって、今、何がいいことなのかは、 その人をよく理解しなくてはならない。 ごく普通に暮らしている多くの人たちにとって、 からだに良いこととは、適度に毒のある刺激だ。 要するにちょっとだけ、からだに悪いことだ。 それが、強さを養い、適応力を養い、生の可能性を広げてくれる。 たとえば、運動によって体内に発生する活性酸素が良くないなどと言われているが、 その毒性があるから、限度あるからだの使い方ができるし、 それに対する耐性がつき、体力増強する。 酒やたばこも上手に使えば健康に貢献してくれると思う。 食通がふぐのきも(微量)で楽しむのも、元気を引き出す魅力的!?な刺激だ。 自然界には、人間にとって不都合なものが溢れているが、 風邪やインフルエンザのウィルスなんかも、 まったく無くなって、無菌室の様な環境へ近づいて行ったとしたら、 人間はどんどん弱っていくんじゃないだろうか? 生命の危険に相対してバランス関係をとりつづけ、 より良い状態を保って行くことが生命の本質である適応・進化だとすると、 そんな推測もできる。 回りを見渡せば、自分にとって不都合なものはたくさんある。 性格や感性の合わないやつなんて、ホントに不都合だ・・・笑 手に負えないのは、親がそうゆう場合だ。 たとえば親だからと言って、 いつまでも子の生活の中にずけずけと踏み込む様ではだめだ。 そう言うとみんなうなずくと思うが、 私が気になるのは精神的な部分での事。 子は親を敬い、死ぬまで大事に・・・・ こういった社会通念が浸透している。 もちろん異論はない。 けれど、履き違えると(理解が浅いと)精神的に自立しない人間が増えることになる。 私も親となり、子育ての苦労は味わった。 我が子との暮らしは確かにすばらしい日々だった。 愛情に溢れた空間にどっぷりと浸かり、 生きるための前向きなエネルギーが、日々湧き上がる。 しかしまた、私の中の育っていない幼稚な精神が刺激され、 つらい感情が噴き出す事もしばしばだ。 そのたびに、ああ、自分はこんなにも幼稚だったのか! と愕然とする。 自分の親が、どうゆう気持ちで私を育ててきたかもよく解った。 子育ては、親自身を育てる唯一と言っていいくらいのチャンスだったと思う。 その様に、当時は幼かった私も、 そして自分の子も、育って一人の大人に変わっていく。 その時、親子関係は過去のものとなる。 ・・・んじゃないかと思うよ。 新しい大人どうしの関係へと変わっていかなくては気持ちが悪い。 親子の関係も夫婦の関係も精神の成長に合わせて、変化・適応を繰り返して行くのがいいと思う。 けれどもやっぱり、死ぬまで親子の上下関係は絶対だと主張する人はいる。 私の父は今でも、 会うたびに先祖をたいせつにしろ! 今あるのは、先祖がいたからだ! お前達がいつ何をしていようとも、先祖あっての今があるのを忘れるな! ・・・・・・・・・・「だから、俺を大事にしろ」って言ってる様にしか聞こえない。 笑 はっきり言って、そんな事はいちいち教えなきゃいけない事じゃない。 それぞれが成長の過程で自然に思い至り、さらにその先へと洞察は進んでゆくのが自然なのだ。 残念ながら、父は、犬や猫をしつける様に、いちいち教え込まねばならないと思っている。 わが親ながらなさけない。 まあ、自分の親を悪く言うもんじゃないと、お叱りを受けるかもしれないが、仕方ない。 でも似た様な人はたくさんいる。 身近にいれば、どうしても係わりあって行かなきゃならないから、 人間の理解が進むし、自分自身の理解も進む。 本当に進めば、人生がさらに味わい深いものになるのかな? そう信じたい。 きっとそうだと思う。 話を元にもどそう。 地殻変動などにより、離島に取り残された生物がたまたま天敵もいなくなり、 繁殖繁栄するなんて事もあるが、 何かが弱くなっているんじゃないか? どうよ? ガラパゴスのみんな・・・笑 血統書付きの犬や猫も、血統が純粋なほどからだは弱いらしい。 いろいろ混ざった、不純な!?雑種ほど生命力は強い! 人間も不純であることは大切かもね・・確かに不良は生命力が強そうだ。 笑 そういえば、生きる化石なんて呼ばれる生物もいるなぁ・・・・ 深海にはまだ人間の知らないそんな生物がうようよ!?いるらしい。 けれどそうゆう生物が長年・・と言っても地球の歴史の中では瞬間だが、 共通する特徴は何だろう? あまり敵をつくらず、または敵の少ない環境に適応している事か? たしかに凶暴な生きる化石なんて聞いたことはない・・・・ いずれにしても、 見かけではうかがい知る事のできないくらいの、 柔軟な適応力を備えているんじゃあないかな。 また話がそれるかもしれないが、 青春時代に、社会通念とか常識とかに縛られている窮屈さに悩んだ事がある。 「自由」 でありたかった。 けれど、何が正しくて何が悪いのか? そこも知りたかった。 強烈に。 その答えが出なければ、自分はどう生きていいか判らないと思った。 もちろん、すぐに答えはでない。 もんもんとする年月を過ごした。 あるとき、すべてをゼロにして考えてみようと思った。 もし、すべてが自由な世界にいたとして、 自分はどうゆう行動をとるだろうか。 まず、他人の命を奪う行動について考えた。 そしてとにかく、気が付いた時に立ち止まって、いちいち考えてみた。 判断基準は快か不快かだ。 その行動で自分は、心身ともに満たされる快感・感動があるかどうかだ。 結果、おおよそは常識と言われる事と同じ行動をとる事がわかり、 縛られているといった、被害妄想的窮屈さからは解放された。 けれど、これは違うなあとか、どうでもいいだろうとか、 おかしいなあ黒幕がいるなあとか、 笑 新しい発見や気づきもあった。 結局、その時代に生きている人間の精神性が現れているとおもった。 もちろんいろんな人間がいるわけだから、その平均の枠からはみ出す人間もいるわけだけどね。 そして黒幕だ 笑 ↓ここからフィクションね〜 常識という縛りを利用して大きな富を得ている人間がいそうだなあと感じたよ。 それはきっと、むかしむかしの原始時代から始まったに違いない 笑 その時はきっと、良心から発生したんだとおもうが、 今はちがうな。 うんっ、ちがう。 社会通念などは、ある種、集団催眠みたいなものだと思う。 そして、それは社会を形作る中枢に受け継がれているに違いない! 爆 (面積の大きいいくつかの国を考えてみてね。分かりやすいから。) ↑フィクションおわり〜 けどまあ、いいよ。 ホントにそうだったとしても。 そこに、その生き方に感動はあるのか? 私はそれを基準としたい。 |